日本のロックの歴史#013

ロック御三家と歌謡曲化

■CHAR
8才でギターを始めた後、中学生でスタジオミュージシャンの仕事を頼まれていたCharは、スモーキー・メディスンで金子マリらと活動した後、76年シングル『NAVY BLUE』、1stアルバム『Char』でデビューした。ギター・テクニックを存分に披露し、玄人筋からも高い評価を受けた。77年6月にリリースされた『気絶するほど悩ましい』は外部作家の手による楽曲ながら「シングルは歌謡曲で構わない」とためらわずに歌い大ブレイクした。その後も『逆光線』『闘牛士』を立て続けにヒットさせた。

■原田真二
18歳ながら卓越した作曲能力により、作詞家・松本隆とのコンビで、77年10月に『てぃーんず ぶるーす』、11月に『キャンディ』、12月に『シャドー・ボクサー』と、過去に例の無い3ヵ月連続リリースでデビューし、3曲全てをオリコンベスト20に同時ランクインさせた。

■世良公則&ツイスト
77年11月にデビューしたのが、世良公則&ツイスト。ヤマハ主催のポプコンで、ロックバンドとして初のグランプリを獲得した彼らは、受賞曲『あんたのバラード』でレコードデビューし、いきなり大ヒットを飛ばした。その後も、『宿無し』『銃爪(ひきがね)』『性(さが)』『燃えろいい女』とヒット曲を連発した。

■桑名正博
ファニーカンパニー解散後、1975年、アルバム『Who are you?』をリリースし、ソロ・デビュー。翌1976年「哀愁トゥナイト」「サード・レディ」をリリースするも、1977年9月に大麻とコカインの使用で書類送検された。1979年、カネボウ化粧品キャンペーンソング「セクシャル・バイオレットNo.1」でチャート1位を獲得する大ヒットを記録した。

■LAZY
1977年2月、朝日放送『ハロー・ヤング』に出演し、かまやつひろしに認められデビューの機会を得る。 同年7月、RCAよりシングル『Hey! I Love You!』でデビュー。1978年、3枚目のシングル『赤頭巾ちゃん御用心』がオリコン32位にランクインし、知名度が向上するが、本来はハードロック志向のバンドだったにもかかわらず、ベイ・シティ・ローラーズのようなイメージを要求されることとなり、メンバーは葛藤していた。1980年7月のツアーで「ヘヴィー・メタル宣言」をし、ハードロックの名盤『宇宙船地球号』をリリースする。

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